『命もいらず名もいらず』を読みまして

今年は新天皇の即位にともない、様々な儀式や祝典が執り行われるため、皇居とその周辺がクローズアップされているようです。今回は、tomomixが担当します。
現在、皇居は天皇の居所ですが、およそ150年前は徳川家のお城、江戸城でしたね。皇居には今でもお濠や桜田門、大手門、清水門など江戸城の名残を見ることができます。ここにかつて将軍がいて、大名や旗本、御家人などが行き来していたのだなと思うと、日本史好きな私の小さな胸が熱くなります。

江戸城と言えば、やはり無血開城が幕末の象徴的な事柄ですが「江戸無血開城を成し遂げた立役者は、勝海舟と西郷隆盛と言われているけど、ホントのところは、山岡鉄舟と西郷隆盛の尽力によるものだよね。知ってるでしょ?」とボスから軽いジャブを受けました。

山岡鉄舟・・・わたくし、恥ずかしながらよく存じません。
「えー!幕末好きなのに鉄舟のこと知らないの?!残念だなあ。俺は知ってるけど。」と勝ち誇ったように得意げなボス。・・・なんか腹立つ。
そんな日本史に詳しいボスが、まあ、これ読んでみなよと時代小説『命もいらず名もいらず』(山本兼一・著)を貸してくれました。幕末編、明治編の上下巻になっており、山岡鉄舟の生涯が書かれています。

それでは江戸無血開城を成し遂げたという『山岡鉄舟』が明治維新にどのようにかかわっていたのか、またその人物像を本書を中心に読み解いていきたいと思います。

 

山岡鉄舟とは

1836年、小野鉄太郎高歩は旗本の家にうまれ、通称は鉄太郎。号を鉄舟というそうです。鉄舟は幼いころから剣術、禅、書を学び極めていきます。
大柄な体躯の剣客で、井上清虎から北辰一刀流を学び、井上の勧めで講武所に勤務するようになります。ここで千葉周作や槍術の山岡静山とその弟の高橋泥舟とも親しくなります。これが縁で山岡静山亡き後、彼らの妹の英子と結婚し、山岡家の養子となり山岡鉄舟となるわけです。幕末三舟の高橋泥舟とは義兄弟なのですね。
禅僧の下で精神を鍛え、書は多くの作品を残しました。

 

ぶっちゃけ

あんパンの木村屋の看板の字は鉄舟によるものとのことです。

 

時世の流れか、鉄舟も攘夷運動に走ります。1862年、剣術で知り合った清河八郎らと意気投合。尊王攘夷論者と行動を共にすることが多くなります。
浪士組の取締役として、のちの新選組の面々と上洛。このことは新選組関連の本によく登場しますね。清河八郎が討幕論者であったことから暗殺されます。鉄舟は清河と仲良しであったのをとがめられ謹慎処分となりました。

大政奉還が宣言された1867年、鉄舟このとき31歳。最後の将軍徳川慶喜は朝廷から追われる身となり、鉄舟は慶喜を警護する精鋭隊の頭に任命されます。
東征軍参謀の西郷隆盛は徳川慶喜を捕縛すべく江戸へ進軍していて、江戸城総攻撃を決めていました。ビビりまくる慶喜。西郷との談判を側近に指示しますが、勝海舟には断られます。慶喜が最も信頼している高橋泥舟に談判に行ってほしいけど、自分のそばにいてほしい。なんてわがままな将軍なの!身動きが取れない泥舟は、鉄舟に西郷との談判を託します。これが鉄舟による無血開城につながるのですね。

一応、精鋭隊の直属の上司である勝海舟に西郷との談判の許可をもらいますが、西郷にたどり着くまでに官軍に打たれる可能性が高いため、勝は、捕虜として自宅に置いていた薩人の益満休之助を鉄舟のボディガードとして同行させる手はずをとります。官軍は薩長人ばかりですから益満の存在は助かりますね。一路、西郷が陣する静岡に向かいます。道中、益満が体調不良で離脱しますが、あの清水次郎長や,ところの漁師などの助けを得て、どうにか東征軍参謀西郷隆盛との面談が叶います。

西郷隆盛VS山岡鉄舟

「山岡鉄太郎、主人徳川慶喜の名代として参上いたしました」「ご苦労様でございもす」。いよいよ両雄の会談が始まります。大柄な二人が対峙する様は迫力ありそうです。
鉄舟は慶喜の恭順の姿勢を評価し、江戸総攻撃を辞めるよう西郷に申し入れます。しかし西郷は、すでに総攻撃の日程は3日前に決まったと言いました。旧幕府軍の残党による、新政府に歯向かう戦が続く限り、慶喜が素直に恭順の姿勢をとっているとは思えないというのですね。鉄舟は、残党が勝手にやっていることで、主人慶喜に赤心なしと力を込めて言います。そして本書ではこのように続けます。

 

「江戸を火の海になさらぬようにお願いしたい。民を、お救いください。人を殺すことを専一になさるようでは、天子の軍ではありますまい」と深々と頭をさげたのち、西郷を見すえた。

 

鉄舟は、主人慶喜の助命だけではなく、城下の江戸の民のことも考えていたのですね。
西郷もこれには納得したようですが、総攻撃を中止する代わりの条件を申し述べました。江戸城明け渡し、武器・弾薬・軍艦の引き渡し、城内家来を向島に移し謹慎させること。鉄舟はこれらの条件はのみましたが、唯一「慶喜を備前藩の御預けとする」という条件は承服しません。徳川恩顧家臣一同も承服せず、戦争が起こるというのです。西郷が朝命だと一喝しますが、これで戦争になって数万人の生命が消えれば、西郷先生は人殺しだといって、鉄舟も折れません。
「朝命は朝命でごわすぞ」と引き下がらない西郷。この緊迫した応酬は本書でこう続きます。

 

「されば、先生と拙者の立場を代えてお考えいただきたい。島津公が、なにか誤りを犯して朝敵の汚名を受け、官軍の征討を受けたとしましょう。西郷先生は、島津公をさしだされますか」
鉄舟の言葉で、西郷が天井をにらんだ。じっと考えてから、うなずいた。
「もっともでございもす。主人をさしだし、安閑とすることはできもはん」
「そうでござろう」
「わかりもした。徳川慶喜殿のことは、この吉之助が、必ず取り計らいもす。ご一任ください」
「承知つかまつった」
それで、すべての談判が終わった

 

西郷は主君の島津斉彬を敬愛し、斉彬の死に殉じようとしたほどの主君思いの人です。一方鉄舟はどうでしょうか。主君慶喜は自身の保身、命乞いばかりに気をもみ、守るに値する人物なのか?と思うのですが、鉄舟は慶喜を守ります。慶喜を守ることによって、その先にある大勢の家臣、城下の民が救われる、そのために奔走したのではないか・・・と思わずにはいられません。
会談の後、西郷と鉄舟は酒を酌み交わし互いの労をねぎらいあいます。

無血開城のその後

こうして、江戸無血開城は叶いましたが、その後も各地で戦火がくすぶり、その度に鉄舟が休戦を説き伏せに奔走したようです。また、鉄舟は旧幕人ですが静岡藩権大参事、初代茨城県知事などを歴任します。静岡は徳川家恭順の地、茨城は慶喜ゆかりの地であり、水戸天狗党の残党がいそうですから、いずれも鉄舟でないと務まらない土地への赴任ですね。

その後、西郷に見込まれ、勝に請われて明治天皇の侍従になり、宮内省に出仕するようになります。明治天皇にも気に入られて、天皇の教育係的なポジションにいたといいます。
1882年、鉄舟は辞表を出します。その一か月後、宮内省から勲章をやると呼び出しされましたが鉄舟はいきません。

鉄舟が来ないので、参議の井上馨が鉄舟の自宅に勲三等の勲章を授けにやってきました。ところが鉄舟、家族に勲章を拝ませ、そのまま返上してしまいます。これはどういうわけだと井上馨。鉄舟は腹を立てていました。
井上馨が勲一等で、なぜ自分が勲三等なのかというのです。自分が一等の間違いではないか、勅命といったって、どうせおまえさんたちが相談して決めた勲等だろうと。確かに、長州人がこそこそ決めていそうですけどね。
井上は自身がそれだけの手柄を立てたから一等がもらえたのだと、どこの戦争に行って切られたとか、弾に打たれたとか古傷を見せて武勇伝をひけらかしたようです。・・・いますね、こういう人。嫌いです。井上馨自体嫌い。笑。

鉄舟は、それは俺と西郷がしたことの後始末によるものだと黙っておらず、勲章を持ち帰らせました。よほど頭にきたようで、翌日参内し、賞罰が公平べきたることを陛下に進言したそうです。
実はこの少し前に、維新の勲功調査があって、勝海舟が江戸無血開城の始末を書いて提出していたようですが、そこには勝と西郷の談判ですべて決したと書いてあって、鉄舟の功績については触れられていなかったようなのです。
なるほど、江戸無血開城の功績が勝海舟と西郷隆盛によるものと、今日まで小説でもドラマでも書かれているのは、これなのですね。

 

ぶっちゃけ
勝海舟、やってくれたな。

 

確かに勝海舟は西郷と数回会談をしており、江戸城明け渡しについて詳細な打ち合わせをしていたとは思います。ただ、すべての会談に鉄舟が同席していたという史実もあるようですし、おいしいところを勝だけに持っていかれるのは、ちょっと納得いかないなあ。

あと、鉄舟は勝の名代で西郷と談判したという話もよく見聞きしますが、私も本書を読むまではそう思っていましたが、鉄舟は勝海舟が行かないというので、高橋泥舟と協議して、徳川慶喜の名代で勝海舟より先に西郷隆盛と談判した,その結果、江戸無血開城並びに江戸城下が火の海にならずに済んだのです。ふー、すっきりした。いやいや、すっきりしない。
事情を知る役人は、これでは山岡さんの功績がなくなってしまうと悔しがりますが、鉄舟は「いや、このとおりだ」と否定しなかったそうです。理由は、否定すれば、勝の面目が潰れてしまうからと。・・・いやはや、大した御仁ですな。

私だったら「実はね、西郷との談判したの、あれ、あたしなんだよ!」って絶対言いふらしますけどね。

晩年

宮内省を辞し、鉄舟は相変わらず剣術と禅、書に励みます。1885年50歳の時に一刀正伝無刀流なる剣術法を生み、書は頼まれれば何にでも書きました。そのお礼の金子を貯めておいて貧しい人に分け与えたともいいます。禅では滴水和尚から厳しく教えを請い、一層精進していきます。

1888年、鉄舟は胃がんを患います。死の間際、妻に白衣の支度をさせますが、特別なことはせずいつも通りふるまうよう言いつけます。自分の一大事だからといって、道場稽古や子供の学校を休ませるようなことをするなと。

しかし、多くの門人、知人、親族などの大勢の見舞客が押し寄せます。陛下も気にかけていたようで、勅命で侍医に診察させます。侍医は陛下からお言葉を預かってきていて「山岡はよく生きた」と伝えました。その一言で鉄舟は“おのれの一生が光に満たされた”と本書にあります。

いよいよのとき、鉄舟はもたれていた布団から体を起こし、皇居に向かって結跏趺坐(座禅のあぐらみたいなの)をし,瞑目して亡くなったとあります。53歳の生涯でした。

本書を読んで学んだこと

本書の書き出しは、

とんでもない男である。
世に正直者や、志の高い人間は多いが、この男ほどまっしぐらな人間はめずらしい。

とあります。
本書を通して、山岡鉄舟とは、実直、質実剛健、人々が思い描く武士らしい武士。こういう硬派な武人だからこそ、幕末動乱期において、江戸無血開城の大事を成し遂げたのだと読み取れます。
しかし、この正直者、まっしぐらな人間ゆえ、ちょっと笑えるエピソードが本書の中にありました。

色の道の修行

尊王攘夷に傾倒していたころ、仲間と議論したあとは、決まって吉原に行きます。よほどよかったのか馬鹿なのか、遊女と一晩過ごしたことを妻に話し、色情っていうのは不思議だよね。交わって満足しても、また交わりたくなっちゃうんだよね~と漏らしたとか。鉄舟、女遊びもとことん本気だそうで、男女の色情の不思議をなんとか解明しようとことあるごとに遊里に通ったとのことです。

奥さん、さぞご立腹かと思いきや鉄舟が家に帰らない日が続いても何も言わず、国事に奔走する仲間たちとの付き合いで遊里に行くこともあるのだから仕方がないと思うようにしたとか。これも夫の修行の一つと思っていたそうです。

ぶっちゃけ
できた女房?いいえ!私には考えられません。

予二十一歳の時より色情を疑い、爾来三十年、婦人に接すること無数。その間、実に言語に絶する苦辛を嘗めた

これは、鉄舟本人の言葉だそうですが、父の遺産や扶持米は女遊びで使い果たし、借金をしてまでも吉原通いをしたそうです。また、家財を売り払い残ったのは畳数枚。天井をはがして薪にするほど困窮していたそうです。
当然、親族からとがめられます。しかし、鉄舟は人間という生き物の根源をさぐるため真剣に廓に通っていると意に介しません。
色情とは何か、男と女はなぜ抱き合うのか、抱き合えばなぜ快楽がほとばしるのか。
鉄舟は遊女を抱きながらこんな哲学的ともいえる命題を考えに考えぬいたとあります。私、思うのですが、これ、哲学なんですか?禅をやったら、こんな境地にたどり着くのかしら。

でも,夫や彼氏が浮気の言い訳に「男女の色情の不思議をなんとか解明しに行っていた」と言われたら、怒りを通り越して、ちょっと笑っちゃうかもしれませんけど。

実はドM?

前述の通り、幼少から父の勧めで禅寺に通っていた鉄舟。様々な禅僧の下で修業をしていたようです。癖の強い禅僧が多く、なかなか参禅させてもらえないこともあって、這いつくばるように低頭しても罵詈雑言を浴びせられ襟首をつかまれお堂からたたき出されることもあったようですが,それでも鉄舟は山門に腰を下ろし、座禅をしたそうです。剣客ゆえ気性が荒いと思いきや、鉄舟はこれまで出会った禅僧には、常に低姿勢で、歯向かうことはありませんでした。教えを乞うものとして礼節を重んじたのでしょうか。

鉄舟が後年に出会う、滴水和尚は弟子を殴る蹴るの乱暴狼藉を図る禅僧ですが、それを聞いて鉄舟は滴水和尚に会いたくなります。滴水和尚は鉄舟をギラギラした剣術使いと思ったが、なんてことない、うどの大木。頭の中は空っぽだと酷評します。これに鉄舟は感応するものがあったといって滴水和尚についていきたいと思います。貶されたのに興奮しちゃってますね、鉄舟。滴水は言葉攻めだけではなく、激しい体罰も行いました。鉄舟は謝りますが、足蹴りを辞めない滴水に鉄舟ったら、ありがとうございますと感謝の言葉を述べています。
周りが心配するほどの叱責と暴力があったようですが、鉄舟と滴水和尚の師弟関係は深まっていったようです。ドМもいいところですね。

ある程度の年齢に達し地位を得ると糺してくれる人というのはなかなかいないものですが、滴水和尚は遠慮なくそれをしてくれるありがたい存在と言っています。鉄舟にとっては新鮮だったのかもしれませんね。

二人のボス

鉄舟には幕府時代に徳川慶喜、維新後は明治天皇と二人のボス(主君)に仕えます。作中では、その二人に忌憚ない意見や進言をビシビシ言っています。滴水和尚にはMっけ丸出しですが、二人のボスにはドSといったところでしょうか。
慶喜は江戸総攻撃と自身の捕縛を恐れ、うつ病のようになりますが、本書では徳川家に執着しているから混乱が起きる、城を捨てて、とことん誠意をもって謹慎しろと慶喜を叱咤しています。

明治天皇には、酒をどのくらい飲むのか聞かれ九升飲んだことがあると答えましたが、信じてもらえず衝突しかけたことがあったようです。ただ、明治天皇はまだ若く、鉄舟のような武人が物珍しかったので、彼から吸収することは多かったように思います。陛下は鉄舟から学問、とりわけ仁(人への慈しみ、思いやり)を学ぶよう進言され、学問の時間を設けるようになったと言います。

ボスにイラつくこと、一言言ってやりたいと思うことはだれでも一度はあると思います。しかし目上に意見するのはなかなか難しいですよね。立場の違い、自分の意見が間違っているかもしれない、自信がないなど様々・・・。前述の私のボスとは日本史についての意見交換をよくするので、その勢いで仕事についての意見も述べさせてもらうことがあります。意見が言い合えるというのはいい関係と思います。時々むかつきますが、本書を紹介してくれたことには感謝し,今後もジャブをうまくかわしていきたいと思います。

酒と仲間

鉄舟は剣術、禅、書の学びの中で多くの師、仲間と巡り合い慕われています。清水の次郎長や三遊亭圓朝とも付き合いがあり、門人も大勢集まります。人の集まりには酒がつきもの。鉄舟はかなりの酒豪であったようで、お酒も借金してまで人にも振る舞い、自身も浴びるように飲んだといいます。
酒の飲みすぎで胃がんを患ったとも言われています。飲みすぎ注意ですね。

私の好きな人も、人に慕われ、お酒の席が多い方なので心配が絶えません。お酒と女遊びはほどほどにしていただきたいものです。

ぶっちゃけ

切実。

まとめ

著者の山本兼一先生の作品は『火天の城』、『利休にたずねよ』、『信長死すべし』を読んだことがあり、特に火天の城(信長に安土城築城という無理難題を課せられた大工と家臣のお話)は面白くて、読了後に実際の安土城跡を散策してみました。作中の情景を彷彿させる風景がそこにあるような、山本先生の作品は情景描写がとても豊かで、信長に翻弄される家臣らの心情についても詳細に書かれています。本書でも、登場人物が生き生きと書かれています。

信長を得意とする作家さんなのかしらと思っていましたが、幕末・明治維新の作品も書かれていたのですね。
『命もいらず名もいらず』は、まさに山岡鉄舟の生きざまそのもののタイトルで,明治維新に大いに貢献したサムライであったことがよくわかりました。
令和元年、新天皇即位の年にあたり、皇居=江戸無血開城に奔走した人々に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

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